社会科学研究会

一人の人間を救えない社会科学なんていらないー日本のこと、世界のこと、人間のことを真剣に考え発信します。

外国人の人権

 現在の主権国家体制においては、国家は自国の国民を守るものとされています。しかし、当該国の国籍を持っていないいわゆる外国人の権利や地位はどのように規定されるのでしょうか。外国人は、どこの国においても存在し得ます。例えば、私は日本国籍を持っていますが、私が外国に行くとしたら私はその国では外国人です。例えば、日本の最高法規である日本国憲法は、外国人の人権をどのように規定しているのでしょうか。日本国憲法は、外国人の人権について特別に明記しているわけではありません。外国人の人権は、外国人に対して認めるべきでないもの(国政の参政権や入国の自由など)を除き、本国人と同じように認められると解されています。近代主権国家体制は、基本的に外国人の人権を積極的に認めようとはしません。本当は、外国人も同じ人間のはずです。にもかかわらず、主権国家という神話的な制度は人間を本国人と外国人に分断してしまいました。外国人を忌避すればするほど、国家は自国だけを守ろうと奮闘するようになります。現在の国際関係においては、近代国家である限り殆どの国々が勢力均衡(balance of power)という狭量な考え方をとらざるを得なくなっています。1990年代以降グローバル化という言葉が広まり始めてから、一層その傾向が強くなっています。なぜなら、各国はアメリカの主導するグローバル化という考え方に恐れをなすようになっているからです。主権国家は、自国の利益を損なってはなりません。主権国家にとって自国の利益を損なうことがなぜそれほど怖ろしいのかといえば、主権国家体制の下では、自国の利益を損なうことが、他国の利益に直結するからです。そのため、国家はそれこそ自分が死ぬまで主権国家であることを守らなくてはならないのです。戦争が無くならないのも、国家が未だにこの勢力均衡という考え方に縛られているからです。勢力均衡は、戦争を防ぐことは出来ません。それは、二度の世界大戦が証明したことです。現在、グローバル化の名の下で各国の国内に格差が拡がっています。持てる者はますます持つようになり、持たざる者はますます持たないようになります。この現象は、留まることを知りません。このような状況の中で、主権国家であることを守ろうとすれば、多くの国の経済が頭打ちになる可能性があるのではないかと私は思います。しかし一方で、主権国家であることを辞めることのリスクが莫大なものであることは目に見えています。結局どちらにしても被害を被るのは、市民に他ならないのです。つまり、市民であるというだけでおよそ全ての国の市民の利害は一致しているはずです。本国人か外国人かといった区別は関係がないはずです。しかしそのような議論は、実はある重要な点を見逃しています。それは、政府を創り上げるのは常に市民であるということです。つまり、市民が打ち立てるものである限り政府は常に市民の敵になるのです。市民が許せないのは国家ではなく、実は国家という隠れ蓑を纏った市民なのではないでしょうか。市民にとって、国家とは決して死ぬことのない存在であり、つまり国家に対する闘争には終わりというものがありません。私がマルクス主義に懐疑的になってしまう理由は、以上のような闘争の繰り返しに根本的に意味を感じられないからです。おそらく外国人という概念は、これからも無くならないでしょう。外国人という概念を無くしたいのであれば、私たちは主権国家体制を壊さなければならなくなってしまうのではないか。反対に主権国家を守ろうとすれば、外国人という概念はなくなりません。私たちは、グローバル化の論理によって引き起こされた経済危機には耐えられても、自分の祖国がなくなることには耐えられないのです。