社会科学研究会

一人の人間を救えない社会科学なんていらないー日本のこと、世界のこと、人間のことを真剣に考え発信します。

札幌・姉妹孤立死事件(2012年1月20日)

 今回は、ここ数年間で私が最も衝撃を受けた事件について書きます。2012年の1月、北海道札幌市で事件が起こりました。札幌市のあるマンションの一室で、40歳代の女性二人が遺体で見つかりました。この二人の女性は、姉妹でした。お姉さんの方は自らが病気に苦しみながらも働こうと仕事を探し、しかも知的障害のある妹さんのお世話もしていたそうです。また、二人のご両親は以前に亡くなっていてました。頼るべき人は、誰もいなかったのです。そして、家賃を払うことが出来ず、電気もガスも止められてしまったそうです。冬の札幌をこの状態で過ごしたのです。私も、想像するだけで身が震えます。彼女は、区役所へ生活保護の申請を三回もしたそうです。しかしその申請は断られ、最後の頼みの綱である生活保護を受けられなかったのです。彼女は、本来は生活保護を受けられるはずでした。自身の健康状態や収入状況など、生活保護を受けるだけの条件は十分揃っていたからです。それにも関わらず、生活保護申請は区役所に受理されませんでした。私はこの事件のことを耳にした時、驚愕、恐怖、絶望、そして悲しみを覚えました。私は本人の気持ちが分かるわけではありませんがしかし、頼るべきものがなく、頼る人もなく、そして冷たいマンションの中で、それでも一生懸命生きようとしていた姉妹の光景が自分のことのように浮かび上がってきます。何故なのかは分かりませんが、人間は誰しも生きようとするのです。生きろ、と他人に言われなくても生きようとする力は誰もが持っているのです。私は、このような社会はおかしいと思います。生活保護を最も必要とする人がそれを受けられないような社会はおかしいと思います。必要としている人に届けられなかったら、一体誰が生活保護を受けられるのか。一体、誰のための生活保護なのか。日本国憲法第25条は、次のように言っています。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と。しかし最高裁判所は、今まで一貫してこの憲法第25条の解釈に関してプログラム規定説といわれる立場を取っています。プログラム規定説とは、憲法25条は国の努力目標や方針を規定したものであるとし、この条文自体が直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではないとみる考え方のことをいいます。つまり最高裁は、生活保護の認定基準を基本的に行政と立法の裁量に委ねているのです。しかし、今回の事件では行政側は明らかにその認定を誤っています。それにも関わらず、行政がその判断を誤った時に行政責任などというものが問われることはありません。私はこの制度がおかしいと言うつもりはなく、このような現実がおかしいと思っているのです。決して人間を独りにしない社会、当たり前に人を助ける社会を、今こそ作らなければならないのです。