社会科学研究会

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リベラルとはなにか

 リベラルの意味とは何か。リベラルという語は、どのような意味を持ってきたのでしょうか。リベラルという語は、用いられる国や地域によって意味が異なります。例えば、ヨーロッパにおけるリベラリズム自由主義)という考え方は、17世紀後半から18世紀にかけての啓蒙思想から生まれたため、政治的には民主主義や個人主義、経済的には資本主義や私的所有権の考え方の基礎となったという歴史的経緯があります。一方、アメリカでは、リベラリズムという語は、ロック(John Locke)やスミス(Adam Smith)などの古典的自由主義に対する「社会自由主義」(ソーシャル・リベラリズム)の意味で用いられるのが多いことが特徴です。社会自由主義は、いわゆる”福祉国家思想”を生んだ社会民主主義(ソーシャル・デモクラシー)とは多少異なり、あくまでも”各人の自由”の達成のために相互援助を必要とする点が特徴です。(アメリカでは、古典的自由主義は”リバタリアニズム”と呼ばれることが多いです。)以上の考え方を簡単にまとめるとすれば、リベラルという語のおおよその意味は、「権威や権力から自由な各人による自由な(政治的・経済的・社会的)活動を重視し、それらの自由が阻害される場合には、政府や社会等の介入により是正を図り、社会的な公正を目指す考え方」と定義できるのではないでしょうか。それでは、日本におけるリベラルな価値観はどのような形で現れてきたのでしょうか。日本では、戦前にも吉野作造などの学者が民本主義を唱えるなど、日本の大正時代にはすでに”日本的なリベラル”の思想が存在していました。そして、昭和天皇陛下は、「天皇絶対」の考え方を望まれず、他の誰よりも「立憲君主制」の実現を望まれていました。立憲君主制の実現のためには、成熟した民主的な政治過程が不可欠です。それでも、陛下は国民のために、立憲君主制の実現を望まれました。それを考えると、第二次世界大戦後の現在に生きている殆どの日本国民が”リベラル”な価値観を持っている、と言っても過言ではないのではないでしょうか。ただし、日本が例えばアメリカ等の国と異なるのは、アメリカでは、リベラルであることがいわば”ナショナル・アイデンティティ”(国民意識)とでもよべるほどの域に達しているという点なのではないでしょうか。というのは、アメリカでは「自由」と「民主主義」は絶対の価値観であるように思われるからです。日本という国家に不可欠の価値観(=ナショナル・アイデンティティ)は、言うまでもなく「万世一系の皇統」に他なりません。皇室のあり方を抜きにして、日本という国家を語ることは不可能です。それと同じように、アメリカでは自由と民主主義という価値観は絶対であるということなのでしょう。日本という国は今まで、リベラルな価値観を大切にしてきました。ただし、日本にはリベラルな価値観の他にも守るべき大切な価値観が多く存在することから、その両者の価値観の調和が何よりも重要なのではないかと思います。そのため、吉野作造民本主義などの”日本的なリベラル”とでも言えるような価値観が生まれたのではないかと思います。現在、リベラルな価値観を否定する人は殆どいないのではないでしょうか。というよりも、リベラルな価値観を全否定することは、現在の日本において事実上不可能であると私は思います。現在、民主的な政治過程そのものを否定したり、絶対王政の樹立、封建制の復活などを主張したとしても、実現可能なものとして耳を貸す人はおそらく殆どいないでしょう。日本人は(さほど意識的でなくとも)、ほぼ全員リベラルな価値観を前提としている、と言っても良いと思います。つまり、リベラルな価値観が前提であり、そのうえで多様な意見や主張が生まれてくるということです。決して、例えば「憲法の護持」や「夫婦別姓」などを唱えることが”リベラル”なのではありません。そのように、リベラルという語の意味が矮小化されることで、結局、日本の言論空間には何が残ったのでしょうか。そこでは、リベラルという語自体が(”保守”や”右派”などの)他の語と安易に対置され、目的化されてきたように思えます。私は、リベラルという語は安易に他の語との対比の道具として用いられるべきではないと思います。なぜなら、リベラルという語は、様々な価値の前提となるようなより大きな価値観を目指していると考えられるからです。リベラルの意味を一言で表すとすれば、それは「寛容」ということになると私は思います。寛容という語の意味は、「自分と異なる意見や思想、主張などを持つ他者に対して、自らの意見や思想、主張などを他人に押し付けず、他者の存在を認めること」だと思います。いかなる社会においても、特に自由を積極的に守ろうとする社会においては、この価値観は絶対に不可欠なものです。寛容の精神が存在しなければ、社会は成り立たず、人々の幸福を実現することが出来なくなってしまいます。これからも日本は、リベラルな価値観を世界各国に紹介し、各国と協力していく必要があると思います。国家の政治過程が民主的であろうとそうでなかろうと、または経済体制が資本主義体制であろうと社会主義体制であろうと、リベラルな価値観は多くの国にとって受け入れることが可能であると思います。リベラルな価値観を受け入れることは、人々にとって有益な活動を促進し、寛容の精神の種を蒔くことになります。それにより、今まで教育を受けられなかった女性や子どもが教育を受けられるようになったり、国民による討議の場が設けられたりすることもあります。そして何よりも、寛容の価値は人間に、人生は「一期一会」だということを教え、短い人生の中で人を赦すことの大切さを教えてくれます。私は、これから寛容の価値を自分なりに見つけたいと思います。そして、”人生は本当に一期一会なのだ”ということが自分の実感として分かるようになれば、生と死に関する考え方も変わり、もっと有益にこれからの人生を過ごすことが出来るのではないかと思います。もしかしたら、一人一人の人間が、神様に与えられたたった一度きりのこの人生を丁寧に大切に生きること自体が、寛容の価値を最大にしてきたのかもしれない、と思いました。