二重の基準論の意義
憲法に列挙された各々の基本的人権の保障の程度には、差が存在するのでしょうか。また、そのような差が存在するとしたら、一体どのような根拠によって正当化されるのでしょうか。憲法学において、「二重の基準論」(double standard)といわれる理論が存在します。基本的人権のうち、精神的自由は経済的自由に比べ優越的な地位を占めるとして、法律の違憲審査に際してより厳格な基準によって審査されなければならない、とする理論です。なぜ、精神的自由が経済的自由に比べて優越的な地位を認められると考えるのでしょうか。この理論の根拠としては、(a)「機能論的アプローチ」と(b)「価値論(実体論)的アプローチ」とよばれる二つの考え方があります。機能論的アプローチは、裁判所の機能の側面から二重の基準論を正当化する考え方です。この考え方によれば、経済的自由を制約する立法は民主政治による是正というプロセスに期待して、裁判所は積極的な介入を控えるべきだとされる一方で、精神的自由を制約する立法は民主政治のプロセス自体を損ねるおそれがあるため、裁判所の積極的な介入が必要であるとされます。(このため、表現の自由などの精神的自由は、”壊れやすく傷つきやすい権利”であると言われることがあります。)価値論(実体論)的アプローチは、精神的自由の”価値的な側面”を強調し、二重の基準論を正当化する考え方です。この考え方によれば、経済的自由は社会的拘束性を負っているため、法律による幅広い制約を受けるが、精神的自由は社会的な価値の重要性を持ち、人格とも関わってくるため、経済的自由と比べてそれ自体優越的な地位を占めるとされます。この理論に対しては、それは単なる技術論や形式的な理論に過ぎないのではないか、との批判が存在します。この二重の基準論に代わるのではないかとして提示されている有力な理論が、「三段階審査」という理論です。この理論は、ドイツの憲法裁判において実施されています。この理論によれば、①憲法上の権利が何を保障しているのかといった保護領域の観点、②法律や国家による措置が、保護領域に制約を加えているのかといった制限の有無の観点、そして③制限があったとしたら、その制限は憲法上正当化しうるかといった正当化の可否の観点を順番に審査していき、違憲か否かが判断されることになります。つまり、これを要約すれば「憲法上正当化することが出来ない限り、自由を制約する法律は違憲である」となります。つまりこの理論によれば、自由であるということが原則となっており、例外的な場合にのみ、自由に対する制約が許されるということになります。この三段階審査理論は、優れた理論であると思います。この理論は抽象的な価値を強調しないゆえに、各事案に即した具体的・特殊的な法的解決が望める理論であるといえるからです。それでは、二重の基準論の有効性は無くなってしまうのでしょうか。ここで、二重の基準論がどのように生まれたのかを振り返ってみる必要があると思います。二重の基準論は、アメリカで生まれた判例理論であり、第二次世界大戦後に日本にも紹介され、通説と言われるまでになった理論です。二重の基準論は、アメリカの司法制度の歴史にその根を持っています。元々、アメリカの最高裁判所は、個人の自由を制約する法律に対して、積極的に違憲の判断を下してきました。しかし1930年代になってから、その傾向を変える出来事が起こります。それは、当時のルーズベルト大統領が、いわゆるニューディール政策を実施するための法律を次々と成立させたことに端を発します。ニューディール政策は、国家が積極的に市場経済に関与し新たな経済秩序をつくり出そうとする経済政策です。この政策の原案は、アメリカでの実施よりも前に、日本人によって考案され日本において行われていました。日本の高橋是清大蔵大臣(当時)が、金輸出の禁止や政府支出の増額等によって世界最速の速さで日本を世界恐慌から脱出させたことは有名です。さて、アメリカで行われたこの数々の”ニューディール立法”に対して最高裁判所は、私有財産権および自由な経済活動を守るという理由から違憲判決を続出させました。しかし、それらの違憲判決は国民の批判を受けることになりました。”裁判所の違憲立法審査権は、一体何のために、誰のためにあるのか”ということが問われたのです。ニューディール政策は、経済的・社会的に不利な立場にいる国民を救うために実施しようとされた政策です。そのような政策を実現するための立法を違憲と判断するということは、最高裁判所は国民の利益を考えていないのではないか、と考えられたのです。1937年、ついに最高裁判所は、今までの契約の自由を保護してきた判例を覆しました。経済政策立法についての違憲審査において、最高裁判所は方向転換を図ったのです。この一連の動きは、”憲法革命”といわれることがあります。この出来事以降、最高裁判所は、経済政策立法に対する違憲判決を控えるようになりました。これが、憲法学における二重の基準論の誕生です。司法権を有する裁判所が自己抑制すること(あるいは司法消極主義)は、権力分立の観点からして問題があるのではないか、と考える人も存在すると思います。しかし、この判決は、”そもそも国民の利益を守るとはどういうことか”という最高裁判所の本来の役割を考えた上での判決であったのではないか、と私は思います。これがアメリカにおいていかに革命的な出来事であったか、ということは容易に想像できます。(アメリカの憲法には、社会保障や福祉の考え方は、初めから盛り込まれていませんでした。それゆえ、いわゆる「社会権」の規定を有する日本国憲法などと比べると、アメリカでは社会権の保障の程度が低いのではないかという指摘がなされることもあります。)このようにして生まれた二重の基準論の考え方は、第二次世界大戦後、日本においても主流になりました。日本の司法的機能の特徴として、違憲判決が少ないという点が挙げられます。日本において違憲判決が少ないのは、よく言われているように司法が十分に機能していないからというよりは、①司法の自己抑制が働いていることと②成立する法案の大部分が「政府提出立法」であるという事実にあるのではないか、と思います。私は、日本の司法制度が他国の司法制度と比較して十分に機能していないとは必ずしも思いません。政府提出立法は、内閣法制局による厳格な事前審査を経ることになっています。そのことによって、裁判所による司法審査の役割は小さなものになっていはしないか、といわれることがあります。日本の司法制度が度々、「司法消極主義」のレッテルを貼られる原因はここにあります。私は、この事実をもって日本の司法制度がすぐさま司法消極主義であるとは断定できませんが、内閣法制局のあり方は問題にされるべきだと思います。日本国憲法は必ずしも、内閣法制局の存在を予定していません。内閣法制局を置く日本の制度が一定の成果をあげてきたことは事実だと思いますが、これからもこのような制度でよいのかと問われることは有益であると思います。日本国憲法第九条の解釈にしても、”憲法の番人”であるはずの最高裁判所ではなく、官僚である内閣法制局長官が表明してきた憲法解釈の方が影響力を持ってきたことに表れています。内閣法制局長官による憲法解釈は技術的な側面が強すぎ、硬直的な解釈である点も指摘されることがあります。内閣法制局による憲法解釈や事前審査によって一貫した法体系や法解釈が維持されてきた反面、最高裁判所こそが国民のための”法の番人”であるという事実は忘れられてきた部分があると思います。最高裁判所こそが”法の番人”であるという事実は、もう一度確認される必要があるのではないでしょうか。二重の基準論は様々な批判を受けるものの、この理論に代わりうる有効な判例理論は未だ存在しないのではないか、と私は思います。この理論の優れている点は、”国民のために裁判所はどうあるべきか”という点を常に問い直させるところであると思います。そのような理論は、法解釈が単に技術的に優れているか否かといった観点からは生まれません。なぜそのような批判や時代の変遷に耐えうる理論が生まれたかと言えば、それがアメリカにおける裁判所の危機から生まれた理論であり、また世界恐慌という特殊な状況の中で国民のためを想って生み出された判例理論だったからではないでしょうか。