社会科学研究会

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集団的自衛権と安全保障

 今回は、集団的自衛権について考えてみようと思います。集団的自衛権right of collective self-defense)とは簡単に言えば、自国以外の国が武力攻撃を受けた時に直接攻撃を受けていない第三国が共同で防衛を行う権利のことです。つまり自分の仲間が攻撃された時に、仲間を守るために防衛に加わるということです。これだけを見れば、集団的自衛権の行使は道義的に当然のことのようにも思えます。攻撃されている自分の仲間を見殺しにすることは出来ません。しかし実際には、集団的自衛権の濫用事例は存在します。(ex.冷戦時代のソ連とアメリカなど)このような場合には、アメリカとソ連の双方の集団的自衛権の濫用を正当化することは到底出来ません。さらに、日本が集団的自衛権を行使する対象国としてまず真っ先に挙がるのはアメリカです。しかし歴史的に見れば、アメリカが他国から先制攻撃を仕掛けられた場合は、日本による真珠湾攻撃の時しかありません。もちろんテロによる脅威は現実的に存在しますが、アメリカが他国から攻撃を仕掛けられる場合はどのような場合があるのかについての議論は未だ、実務的な面で成熟していないのではないかと私は思います。集団的自衛権の濫用事例を徹底的に検証することは、不可欠なことであると私は思います。集団的自衛権の行使容認の是非の議論を聞いて私の頭に真っ先に思い浮かぶのは、北朝鮮による拉致問題です。現在、自衛隊はいわゆる”ポジティヴ・リスト”(行ってもよいことが法によって限定的に定められている)によってしか動くことが出来ない状況に置かれています。集団的自衛権の行使を容認したからといって、自衛隊の行動規範がすぐに変わるわけではないが、少なくとも自衛隊が守ることの出来る利益の範囲が拡大することによって、自衛隊の存在意義も変わってくるのではないかと私は思います。日本における防衛意識の変化は、他国も敏感に察知するはずです。同様に尖閣諸島竹島の領有権問題についても、日本の集団的自衛権の行使容認によって、相手国(中国、韓国)の出方を見ることが出来ます。外交・防衛は、既成事実の積み重ねであると私は思います。外交・防衛において、極端は好ましくないということです。外交政策・防衛政策は、ゼロか百かの問題ではありません。いかに極端を避けるかということが、外交・防衛においては最も重要視されるべきです。相手がどのように出るかが分かっている場合においては、極端な方向を目指すことによって利益を受けることもあり得ます。しかし、相手がどのように出るかが分からないゲームにおいては、こちら側が極端に出ることのメリットが少ないのです。それゆえ、極端に走る議論は甚だ無益であると私は思います。私は、外交・防衛問題の解決に向けて、法整備も進めていかなければならないのではないかと思います。もちろん現在の法制度のままで、問題解決に向けて尽力している方々も沢山います。しかしそのことは、現在の法制度のままで外交問題・防衛問題の解決が十分可能だということを示しているわけではありません。拉致問題の解決には今なお、様々な課題が立ちはだかっています。集団的自衛権の行使容認も考え方によっては、直接的ではないかもしれないが拉致問題解決の布石の一つになり得るのではないかと私は思います。また、もう一つ見ておかなければならないことは、集団的自衛権とは異なる安全保障上の概念の存在です。それは、集団安全保障(collective security)と呼ばれている概念です。集団安全保障とは、国連に代表されるように複数の国家が紛争の発生を抑止するために、ルール違反を行った国に対し集団で制裁を加えることです。集団的自衛権と集団安全保障のどちらかが絶対的に安全であるわけでもどちらかが絶対的に危険であるわけでもありません。どちらにも出来ることと出来ないこととがあり(効用)、どちらにも危険(副作用)は含まれています。日常のレベルで考えるとすれば、もしもある集団・クラスの中で一人だけ攻撃を受けている人がいたとしたら、私はその人を守るために協力します。時には、いじめを行っている相手に対し、力を用いて攻撃をすることもあるかもしれません。なぜなら、そのような場合には、話し合いでは問題を解決することが出来ないと私は考えるからです。いじめの問題が取り沙汰される時、他人に相談することや他人と話し合うことを問題解決の方法として挙げる人がいます。しかし、そもそも対話が出来ないからそのような攻撃やいじめが起こっているのであって、その原因を対話の不在のみに求めることは乱暴であり、攻撃を受けている本人にとって過酷なことであると私は思います。しかも現実に明らかに身の危険が迫っている場合に、話し合いで解決しようと言うだけでは自分の身を守ることは出来ません。さらにまた、もしも相談の場や話し合いの場が設けられたとしても、その場は大抵公平なものではありません。そのような場を設けたとしても、いじめや攻撃を止めない例は多々存在します。いじめや攻撃を行う側には大抵の場合、自分の心の中に不満や不足感などがあるはずです。そのようなことから、攻撃を行う側への配慮を欠いた話し合いは無意味である、と私は考えます。もしも話し合いを行うのであれば、当事者双方への配慮を欠いてはなりません。そうでなければ、戦後に日本が承諾させられた東京裁判の手続きと同じようなものになってしまいます。ルールを作るのもまた、人間に他ならないのです。ルールを作る側が圧倒的に正しいなどということはありません。いずれにせよ、攻撃やいじめの原因を対話や協力の不在のみに求めることは出来ません。それはあたかも、歩くことが出来ない人に向かって「歩け」と言っているのと同じように聞こえます。人間社会にも、力の差は歴然と存在します。そのような時にこそ、私は武力の出番があるのだと思っています。大切なことは、筋を通すということです。正しいことは正しいのであって、相手との衝突を避けるという理由だけのために筋を曲げる必要性はありません。