社会科学研究会

一人の人間を救えない社会科学なんていらないー日本のこと、世界のこと、人間のことを真剣に考え発信します。

私の不確かさと世界に向き合うことの怖さ

 人間の行動に見る「画一化」の謎、それは私にとって大きな問題であり続けています。なぜ、人間は「画一化」の方向へ進むのか。なぜ、自分が求めていない方向へ進むのか。画一化の流れを、「社会的動物である人間が本能的に持つ機能」と捉えてしまって良いのでしょうか。私は、「人間は社会的動物である」という言い回しが嫌いです。なぜなら、人間は「正論」によって動かないからです。

 本来的に、自分の求める方向へ進むことは、自分の人生の肯定につながります。そして、自分の人生を肯定することは、そのまま自分以外の存在を肯定することでもあります。しかし、人間はときに、自身に対する(他人に対する)肯定感を容易に失うことがあります。

 私は、私の考えることが最も理解できません。それは、私の考えの中には「確かさ」というものがすっぽりと欠落しているからです。例えば、私が発した言葉であるというだけで、「私」という像(イメージ)が形成されます。しかし、その言葉に対して私が負う責任はあくまでも相対的(社会的)なものです。なぜなら、私が言葉を発した瞬間に、その言葉は私のものではなくなるからです。それに対し、私以外の人が発した言葉には「確かさ」があります。なぜなら、その言葉を何らかの存在が受け止めることによって、その存在は「私」として現前するからです。つまり、「私」とは、今この文章を書いている肉体や言葉を発する肉体のことではありません。有名なデカルトの言葉に「私」の直接的な定義が含まれていないのは、「私」を定義した瞬間に、「私」は見えなく(理解できなく)なってしまうからなのではないでしょうか。

 繰り返しますが、私は私のことが理解できません。それは、私という存在が不確かすぎるからです。もしも、その存在を理解するためには人間の言葉では難しいでしょう。なぜなら、人間の言葉は、「私は自分のことを理解していて、他人は自分のことを理解している」ことを前提に作られた言葉だからです。この言葉を使っている限り、「私」は自由にはなれないと思います。その失われた「私」を求めるために、多くの人間が今日まで互いに争い合い、怒りをぶつけ合っているのだとすれば、それはとても苦しく、また愚かなことではないでしょうか。私にはその状況が、多くの人間が「私」の居場所を探すためにパイを奪い合い、その競争の勝者によって、競争することは良いことだと教えられ、無意味な競争を繰り返しているようにしか見えません。

 私は、いつからか本当の感情を失ったのだと思います。それには、幾つかの原因があると思います。自分を相手の理想に一致させたい→相手から批判や否定されることが怖い→相手の言動が怖くなる→全ての他人の言動が怖くなる→他人の悪意しか感じなくなる(他人は自分の敵だと思うようになる)…。そうなると、自分から何かを求め発したり感じたりすることを避けるようになります。その際に犠牲にするのは、”自分の弱さを認めること”です。なぜなら、自分に正直であることを犠牲にしても、他者(世界)の理想や倫理、道徳を守ろうとするからです。そうやって私は(十年程)今まで自分の考えや気持ちを隠してきた(=自分に嘘をついてきた)のだと思うと、あらためて怖ろしくなります。

 本当の感情を取り戻したい、自分はその一心だけなのかもしれません。しかし、それほど難しいことはありません。私は、一見無感情に見える人を羨ましいと思ったことが確かにありました。しかし、それは本当に過酷でつらいことなのだということがやっと分かりました。しかも、本当の感情というものは、いくら探してもどこにも見つかりません。それは、私が自分の置かれた場所や世界(自分自身)に最低限の肯定感さえ持つことが出来ないからです。まずは、その最低限の肯定感を取り戻すことが必要なのかもしれません。

 彼は強く見える?それは大嘘です。弱さを認めることができないことが、最も怖ろしいことです。そして、彼自身がその沼から脱出する方法さえ知らないのです。「私」の居場所など、多分もうこの世に存在しないのかもしれません。自分の弱さを認めない心によって、「私」に対する問いはやがて、「なぜ、この世界に自分の居場所を見つけなければならない?」という問いに変わるでしょうから。本当は、皆が幸せになる世界をつくりたいのに、他者のことを考える余裕さえない今の自分にただただ苛立ちます。