社会科学研究会

一人の人間を救えない社会科学なんていらないー日本のこと、世界のこと、人間のことを真剣に考え発信します。

性別の意味

 性別とは、どのような意味を持っているのか。少し考えると、性別を持っているということは不思議なものだと思います。必ずしも自ら選んだわけではない性別が、人生に影響を与えるということは、ある意味では人間の理性では説明できないことなのではないでしょうか。私は個人的に、女性(特に若い女性)が苦手なのですが(女性の皆さん、ごめんなさい)、世の中にはおそらく様々な方々がいると思います。性別とは、ただ単に”生物学的な特徴”であるだけでなく、一つの”社会的なカテゴリー”でもあります。それゆえ、性別という事象それ自体を「虚構」(フィクション)であるとして批判することは容易なことです。しかし、性別概念は一種の虚構(フィクション)であるからこそ、今までその役割を果たしてきた面があるのではないかと思います。例えば、幼少の頃の男の子に対して「男なんだから、悲しくても泣いてはいけない」などと言うことが、「性的役割」という虚構を機能させる上で一定の役割を果たしてきたことは事実です。そこではいわゆる、精神分析の理論で言うところの「自我の抑圧」と呼ばれる事象が関わっています。いくら男の子だろうと、悲しくなるときはあります。そのような場合に、悲しい体験や記憶を打ち消そうとすることがあります。しかし、特に大きな悲しみの体験や記憶などは、忘れることが出来ず、無意識の領域に封じ込められます。よく言われるように「男だから強い」のではなく、「男という性的役割の幻想を信じた上で、そのために必要な抑圧が機能している」からこそ、「男は強い」ということになるのだと思います。「自我」(Ich)を脅かすような衝動が”意識”から”無意識”へと追いやられること。それこそ、精神分析の創始者であるフロイト(Sigmund Freud)が、「抑圧」(Verdrängung)と呼んだものです。人間は、自分が受け入れることの難しい欲望や体験などを忘れようとします。しかし、それは大抵の場合、忘れられず、無意識の領域に封じ込められることになります。それどころか、後になってから「反動形成」(=抑圧された衝動や欲望などが、その本来の形と比べて正反対の行動や意識になって現れること)などの形で現れ、激しく苛まれることも珍しくありません。ただし、抑圧が人の”幼少期”において行われる必要があるのか否かということ、そして抑圧の過程に性別による差異が存在するのかといったことは、議論の余地の多い点であり、確定的なことは必ずしも言えないと思います。また、女性を攻撃する男性、または男性を攻撃する女性は、おそらく(先天的なものか後天的なものかを問わず)異性の存在を何かしら”怖いもの”であるとみなしているのではないか、と思います。何らかの怖れの気持ちから攻撃心が生まれ、いつのまにかその攻撃すること自体が目的化してしまう。そのような循環が出来てしまうと、各々の人にとって、なかなか生きにくくなってしまいかねない状況が生まれうると思います。そういった循環を防ぐために有効な手立ての一つは、怖れの気持ちが浮かんだ時点で、まずはその気持ちを”打ち消そうとしない”ことであると思います。なぜなら、そうした気持ちを打ち消そうとしても、それは容易なことではないからです。一時的には、怖れの気持ちを打ち消すことが出来たと思っても、その後に自我にとって大きな負担や苦痛になる危険があります。そこで考えられるのが、自分が怖れの気持ちを抱いたということを誰か他の人に”知らせる”(”シグナル”を発する)ことだと思います。怖れの気持ちを自分一人で抱え込もうとするのではなく、それをそのまま他人に暴露する、あるいは泣き言を言ってしまうこと。しかし、多くの男性にとっては、これが難しい場合が多いと思います。というのも、男性は悩みや心配事、問題などを独りで抱え込む傾向が強い、と一般に言われるからです。私自身もそのような傾向が強くあると思います。悩みや心配事などを他人に対して相談することは、とても難しく感じます。恥の観念が強く存在し、男は家を守る存在という伝統があることについては、勿論素晴らしい点も沢山ありますが、しかしそれ以上に現在、そのプレッシャーに耐えきれなければ自分自身が崩壊してしまいかねない、というのが事実だと思います。しかし、相談することや頼ることは、相談される人や頼られる人にとってこそ、大きな歓びであるということを考えれば、決して遠慮する必要はないと思います。もうこれは互いに助け合っていくしかない、日本人同士で争い合っている場合ではない、と私は思います。こうした性別の問題などは、そもそも国家がトップダウンで対処することが難しい事柄です。例えば、政府などがいくら”女性の社会進出”などを叫んだとしても、それは一部の人々の雇用などには関係があるのかもしれませんが、一方で、より多くの人々により実践的な効果を与えるものではないと思います。それゆえ、国民自身による解決策や助け合いの方法などを考えることが、現実の問題解決に直接に関係してくる蓋然性が高いと思われます。日本の優れているところは、日本国民による合意(コンセンサス)が比較的形成しやすい点であると思います。日本以外の国をみると、必ずしも合意形成が上手くいかない場合が日本よりも多いように感じられます。そのため、日本以外の国々では、ある程度意識的に、国民がより一致団結できるような環境を整える必要があるようです。それに比べ、日本は、国民のまとまりやすさの点で言えば他国よりも優れていると思います。しかし、意識的な必要性が現前しないからこそ、日本ならではの難しい問題もあると思います。性別の問題は複雑であり、「あらゆる人々にとって最善である解決策」を一挙にとることは事実上不可能です。しかし、一人一人が毎日少しでも考えていれば、自分にとって良い改善策や案を考えることが確実に出来るはずだと思います。大前提として、身体的・生物学的な性(sex)と社会的・文化的な性(gender)とが完全に一致する人は地球上にいません。それゆえ、”完全に男らしい男”も、”完全に女らしい女”も存在しません。それは、「性別」という概念自体が本来的に”両義的な概念”であり、身体的・生物学的な性と社会的・文化的な性とは、完全には互いに切り離すことの出来ないものであるからです。いわば、人間は「二つの身体」を持っていると言い換えることも出来るのではないかと思います。日常はいわば、”男性”という虚構と”女性”という虚構との間で”揺れ動いている”状態です。人間は皆、性別に関しては”不安定な状況下での選択”をしている(させられている)のだと思います。性別という概念は、決して生まれた時から安定しているものではなく、生きていく上で変化しうる概念であると思います。私は、すべての人々が自分の性についての悩みや苦しみから少しでも解放され、そして明るく生きられる日が来ることを願っています。