社会科学研究会

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歴史教育とはなにか

 歴史教育と歴史教科書は、どのようなものであるべきか。学校における歴史教育や歴史教科書について、どのように考えるべきか。今回は、そのことについて考えてみようと思います。まず、歴史教育の基礎には必ず思想が存在します。これは避けられない事実です。思想をともなわない歴史教育というものは、実際には存在しません。また、歴史教育は、政府による見解(政府の閣議決定や談話など)や大学などで行われる研究とは必然的に異なります。政府の見解などは、政治的・外交的な利益に必然的に左右されるものであり、また大学などにおける研究は様々な政治権力から自由でなければならないものです。歴史教育は、政府による見解や大学における研究などと同一ではなく、またそれらの方針に従わなければならないわけでもありません。それでは、歴史教育はどのような事実を教える必要があるのでしょうか。学校における歴史教育では、「正統な史実」を教えるべきである、と私は思います。どのような史実が「正統」であるかを決めることは、難しいことです。しかし、その史実が子どもたちに教える内容である限り、歴史教育は「正統」を目指していくべきであると思います。では、どのような史実が正統であるかはいかにして決められるでしょうか。ここで重要であると思われることは、歴史教育が「国民の歴史」を教えるものである、という点です。言うまでもなく日本の学校における歴史教育は、中国国民の物語でもなく、またフランス国民の物語を教えるわけではありません。そうではなく日本における歴史教育が教える内容は、「日本国民の物語」です。なぜなら歴史教育の大きな目的の一つは、国民意識を育てることであるからです。そのため、”全世界共通の歴史教育”や”全世界共通の歴史教科書”なるものは存在しません。そのようなものをつくることは実質的に不可能であるからです。各国の歴史教育や歴史教科書は決して、”全人類の歴史”をその内容としているわけではありません。そうではなく、それらは国家と国民の物語を描いているのです。その点で、歴史教育は人類学や考古学、古生物学などの学問とは決定的に趣を異にしているのです。それでは、日本にとっての「国家と国民の物語」とはどのようなものなのか。言い換えれば、縄文時代弥生時代から古墳時代などの時代を経て今の日本に通じる物語とは何であるのか。様々な時代を経ながら、それでも日本という国家の「同一性」や「連続性」を支えてきたものは何なのか。これらのことを考えることが、学校における歴史教育や歴史教科書を考えることに通じるのだ、と私は思います。逆に言えば、今すぐにでも大多数の日本人がアメリカ国民やフランス国民になって、アメリカやフランスという国家に保護してもらおうとしないのはなぜでしょうか。それはひとえに、日本人としての「国民意識」がそうさせているのでないか、と私は思います。普段は無意識的ではあっても、国をおもう気持ちは誰にでもあるものです。その国民意識を支えているものの一つが、歴史教育なのではないでしょうか。学校で歴史をあまり勉強しなかったという人も、自分なりに大体の日本の歴史のイメージを持っているのではないか、と私は思います。それは、学校における歴史教育の効果であると思います。歴史教育は国家と国民の物語を内容とするがゆえに、それは必然的に「大きな物語」にならざるを得ません。個々人の歴史には、国内の各地域における固有の歴史や家族の歴史なども当然含められると思います。しかし、国家・国民の物語だけが存在して地域や家族の物語が存在しない国家というものは私は聞いたことがありません。反対に、地域や家族の物語だけが存在して国家・国民の物語が存在しない国家というものも聞いたことがありません。国家・国民の物語と地域や家族の物語とは、実際は密接に結びついていることが分かります。なかには、国民意識や国をおもう気持ちを薄めれば、各国や各国の国民同士が協調し仲良くすることができると考える人も稀にいるのかもしれません。しかし例えば、外国に住み、外国語を用いて生活し、外国の文化だけに触れていようとしても、日本人としての国民意識を捨て去ることは容易に出来ません。むしろそのような場合にこそ、国民意識を強く感じるのではないでしょうか。また、例えば外国人の友人と話をする時にお互いの国家や国民意識を全く意識しないことは、実際にはあり得ないことなのではないでしょうか。国家や国民意識などをどれほど気にしないと言う人でも、無意識にお互いの国家における前提、つまり「国家と国民の物語」が念頭にあるのではないかと思います。「国家と国民の物語」を教えることが歴史教育の本質であるとすれば、それは日本人に自信や誇りを持たせるような内容でなければならない、と私は思います。国民の自信や誇りを失わせるような歴史教育は言うまでもなく、その本来の意義を失っていると思います。また、戦争の歴史だけが歴史教育であるわけではありません。戦前と戦後をあまりにはっきりと区別するような内容は、国民に対して大きな違和感を与えます。戦前と戦後を通じて受け継がれてきたものは認め、そのうえで戦後に変化した面を説明しなければ、国家の歴史としてはあまりにも不自然であると言わざるを得ません。戦前と比べて戦後は全く別の国家に”生まれ変わった”というわけではないのですから、そのような記述は不適切であり、歴史教育の目的からは大きく外れています。日本の歴史教科書の記述が、日本の戦争に対する”責任”にばかり焦点を当てていたり、また日本国民の日本に対する自信や誇りを失わせるようなものであるならば、日本国民の多くが史実を知りたいとは思わなくなるでしょう。勿論、そのような偏った記述からは戦争に対する反省の気持ちも起こりません。子どもたちに対して、戦前の日本を断罪し日本の戦争責任を追及する見解ばかりを押し付けることは、歴史教育としておかしなことであると言わなければならないでしょう。自分の親やご先祖様が「犯罪者」であると言われて、嫌な気持ちにならない人はいないと思います。自分がされて嫌な気持ちになることは、相手に対してすべきではないと私は思います。自らの歴史、つまり国家と国民の物語に誇りを持つこと。そうすれば、外国人が自国の歴史に対して誇りを持つことに対しても、人間は寛容になることができると思います。そのように自国に誇りを持つことができれば、例えばイスラエルパレスチナ問題において、「イスラエル政府が一方的に非人道的行為を犯しているから悪いのだ」などと軽々しく発言することはできないのではないか、と気付くことができるのだと思います。もしそのような視点がなければ、”いじめているように見える人”が常に悪いということになってしまうと思います。法律論においても、「過失相殺」という制度が存在します。それは、例えば交通事故が起こった時に、それが運転者(加害者)の不注意によって起きた事故であっても、被害者の側にも少しでも過失がある場合には、加害者が全ての損害賠償責任を負うことは公平であるとは言い難いので、その賠償額を被害者の過失に応じて減額するという制度です。つまり、一方の側だけが”100パーセント全て悪である”ということは、人間の社会生活上あり得ないことではないか、ということです。国家や人の力の規模がいかに小さくても、またいかに大きくても、自信や誇りを持たなくてよいということにはなりません。歴史教育がその任を果たすためには、未だ考えるべき問題は残っていると言えるでしょう。しかし日本国民が自信や誇りを失わない限り、日本という国家は万世一系の皇統を持つ国家としてこれからもずっと栄えることでしょう。