社会科学研究会

一人の人間を救えない社会科学なんていらないー日本のこと、世界のこと、人間のことを真剣に考え発信します。

フランス革命以後の国家観ー歪んだ自意識とこの国のかたち

 1945年(昭和二十年)8月15日の正午、昭和天皇陛下による大東亜戦争終結ノ詔書の音読放送(玉音放送)が、日本の降伏を国民に伝えました。当時皇太子であられた今上天皇陛下は、玉音放送が終わると静かに涙を流されたと伝えられています。翌年の11月3日、昭和天皇陛下の詔書のご朗読によって日本国憲法が公布されました。日本は戦後の道を歩み出したのです。新しく公布された日本国憲法の理念の根底にある国民主権基本的人権の尊重、平和主義の三つの原理は、日本国憲法の三基本原理と称されています。日本国憲法の三基本原理はすなわち、国家の主権(=国家の統治のあり方を最終的に決定する権力)は国民にあるとする原則、国家は個人が有する人権を最大限保障しなければならないとする原則、そして非軍事化による絶対的な平和の追求をその内容としています。第二次世界大戦後、日本の国家観はどう変わったのか。そしてどこが変わらなかったのか。それを明らかにするためにはまず、日本国憲法成立の過程に着目する必要があると思われます。日本国憲法は、大日本帝国憲法明治憲法)第七十三条の改正手続きによって成立した憲法であると解されています。この点について、大日本帝国憲法には他の憲法と同じように改正権の限界が存在するのではないかとの疑問が当然生じます。国民主権を謳った日本国憲法は、天皇主権の大日本帝国憲法とは根本的に相容れないからです。この矛盾を説明するために用いられるのが、同年8月14日のポツダム宣言受諾をもって法的な意味での「革命」が起こったという学説です。この法的な意味での「革命」によって、国民主権と矛盾する大日本帝国憲法は効力を失った、と説明されるのです。これがいわゆる「八月十五日革命説」です。しかしこの学説には、根本的な矛盾が存在します。まず第一に、「日本において、1945年8月15日に革命は起こったのか?」ということです。広く知られているように、日本はポツダム宣言を受諾し、戦後GHQの占領統治を受け、1946年(昭和二十一年)に日本国憲法が公布され(翌年に施行)、そして1952年(昭和二十七年)4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効によって独立しました。これを見る限り、日本において敗戦後のこの時期に本来的な意味での「革命」が起こった形跡はありません。日本において、ヨーロッパにおける名誉革命フランス革命のようないわゆる「革命」は起こらなかったのです。では、なぜ「八月十五日革命説」は、戦後の日本において起こることがなかった「革命」が起こったという、いわば「擬制」を行ったのでしょうか。それは、戦後に主に知識人と呼ばれる人々の間において、「市民による革命」というフィクション(虚構)に真に同一化したい(もしくは日本国民に同一化して欲しい)という願望があったからではないか、と私は思います。人間は何かを強制された時、それを他人から強制されたと思うよりも、自ら選んだ(勝ち取った)のだと思いたがる傾向があります。ヨーロッパにおける近代市民革命の物語は、絶対王政を打破し、自立した個人による平等な市民社会を実現させることを夢見る、いわゆるフィクション(虚構)です。市民革命が語られる際にはまず、封建的国家からの個人の自立といった物語性が重視されます。そこに潜む国家観は、「国家とは、本来的に国民の権利を侵害する存在である」という見方です。またそこには、「自立した個人が平等な市民社会を実現すれば、国民のための国家を実現することが出来る」という見方が存在しているように感じられます。確かに、日本国憲法の理念である国民主権基本的人権の尊重、そして平和主義は互いに密接に結びついています。国民に主権が無ければ、基本的人権は有名無実の権利になりかねません。また、対外的に戦争を起こしていては、何よりも国民の人権を守ることは出来ません。しかし、国のかたちには様々なものがあります。国のかたちに合わせて制度を立てるのは当然のことであって、それは国のかたちを制度に合わせることではありません。日本の国のかたちは、明治時代に制定された大日本帝国憲法にも、戦後につくられた日本国憲法にも合っていないのではないか、と私は思います。なぜなら、明治時代に近代西洋法をそのまま継受して大日本帝国憲法がつくられたのと同じように、第二次世界大戦後にはアメリカを中心とする連合国によって憲法の基礎がつくられたからです。そのどちらの憲法も、日本のかたちを表していないということは共通しています。以上のようなことは、日本だけに当てはまることではありません。世界中の殆どの国が、十九世紀からに二十世紀にかけて遅かれ早かれ、近代西洋法の枠組みを継受することになったからです。問題は、憲法が国家のかたちを表していないということにとどまりません。もしも憲法が形式的なものにとどまるのであれば、私はそれほど憲法のあり方を問題視しなくて済んだかもしれないと思います。私が最も大きな問題だと感じることは、その国の憲法のあり方が国民の国家観に影響するということです。日本という国は、近代法を継受するよりもずっと前の時代から存在します。日本の法制史をみれば分かるように、近代西洋法を継受する以前は、憲法が国の最高法規であるという考え方は公には存在しませんでした。近代以前の日本にも、憲法と名づけられた法は存在しましたが、近代以前の憲法は他の法令よりも上位の効力を持つものと明確に位置づけられていたわけではありませんでした。近代西洋法を継受するに至ってはじめて、憲法が最高法規である(=憲法よりも上位の効力を持つ法は存在しない)と明確に位置づけられたわけです。そして、それとともに「憲法的国家観」とでもいうべき国家観が導入されました。近代以前は、国家あるいは国家元首たる君主が法を定めるのであって、君主は法(実定法)に拘束されないことが原則でした。それに対し、近代西洋的な憲法は何よりもまず君主の権力を制限することを目的としています。君主の権力は、まず第一に憲法によって制限されているのです。日本が近代西洋法を継受した際に生じた矛盾は何よりも、「君主の力の制限」という近代西洋的な憲法観を日本という「国のかたち」にそのまま当てはめることが出来なかったことによるものである、と私は思います。いつも民のことを想い、ある時は民とともに国の繁栄を祈ってこられた日本古来の天皇のあり方、そして皇室のあり方は、権力の限りを尽くして国民の権利を搾取してきた近代西洋的な絶対王政のモデルと同一視できるものではありません。それにもかかわらず、日本は近代西洋法をそのまま継受してしまったがために、憲法的国家観と矛盾しない自らの国家観を見つけることが出来ず、明治以来の日本はその矛盾に苦しむことになったのではないでしょうか。そして昭和初期以降の軍部の台頭という現象は、「憲法的国家観」に馴染めず行き場を失った軍部が見つけ出した自らの最後の居場所だったのではないでしょうか。私にはそのように思えてなりません。それゆえ、当時の軍部だけを責めることは私には出来ません。日本という国が「近代西洋法」を継受したのは明治時代ですが、実際に近代西洋的な国家観への同一化の契機が生まれたのは、それからおよそ半世紀を経た戦後の時期だったのではないかと思います。先の戦争を振り返って、「国民は、国家による被害者だった」と決めつけることは簡単なことです。戦後、欧州諸国を来訪された昭和天皇陛下のお乗りになった車に向かって、卵を投げつける者がいたことや、陛下をヒトラーと同一視する発言をした者がいたことも事実です。しかし、本当にそう決めつけて良いのでしょうか。そう決めつけることによって、日本の真の国家観を取り戻すことが出来るでしょうか。被害者意識を持つことによって日本の国家観を取り戻すことは出来ない。私は、そう確信しています。国家観には、国民が”こうありたい”、祖国に”こうあってほしい”と想う気持ちが込められるものです。まずは、いかなる憲法にも振り回されることのない国家観を国民自らがつくること。そして、憲法のあり方を国家のあり方、国家観に即して国民自らが決めること。その二つのことが日本を、自らの国家観を持った、真に自立した国へ導いてゆくのだと私は確信しています。