社会科学研究会

一人の人間を救えない社会科学なんていらないー日本のこと、世界のこと、人間のことを真剣に考え発信します。

個人主義、社会、因果関係

 今回は、社会を捉える方法とその問題点について考えてみようと思います。まずは、個人と社会の問題について考えます。例えば、一人の人間が働く場所や仕事を見つけられなかった時に、それはまず第一に社会の問題であるはずです。なぜなら、あらゆる仕事は、働く人の労働力の支出とそれによって生産された物やサービスを享受する人の需要との双方向性によって成り立っているからです。仕事や自分の居場所を見つけられなかった人間は、その時たまたま他の皆が乗っていたエレベーターに乗ることが出来なかっただけかもしれない。そして実はそれは個人だけの問題ではなく、エレベーターに乗っていた全員の人間に関係がある問題です。しかし現代の多くの言説は、その事実を簡単に忘れさせ、社会の問題を個人の問題に帰してしまう傾向が見られます。社会全体の問題を個人の問題に帰してしまうのは、簡単なことです。しかし、それによって何が生まれるのか。何が人間を幸せにさせるのか。私は、個人主義は恐ろしい病であると思います。しかし一方で、それをポジティヴに捉えることも可能なのではないかと思います。個人主義は多くの人間に個人として生きることを強いるとともに、個々の人間に対して「個人の真の幸福」を想像することを強いるものでもあるのです。前近代的な社会においては、共同体や社会の幸福は考えられていたかもしれません。しかし、その時代に全ての人々が個人の幸福を真剣に考え、想像していたでしょうか。ある意味では現代においては、多くの人々が「個人」として幸福になりたいと願っているのです。この事実は、私たちにとっては実に大きな武器です。なぜなら、これだけ個人が各々の幸せを求めているという目的がはっきりしていれば、その目的に対して素直に向かっていくだけだからです。しかし一方では、人間は直ちに真の幸福を享受できるとは限りません。そこで人間が幸福を得るためには、漸進的な道を行く必要が出てきます。人間は誰でも、現在の自分の状態が分かることによって多少楽になります。つまり、どこに自分のことを「悪魔」がいるのかということを自分自身が分かっていれば、不必要に自分を責め苦しむようなことはなくなります。少なくともそれは、「自分」のせいではないのですから。人間は問題を解決しようと思えば、解決できる能力を皆持っています。しかし肝心なことは、その時に自分自身が本当にその解決を望んでいるのかどうか、自分でもよく分からないことが多々あるということです。その事実は、人間に関する根源的な問いに繋がっています。それは、人間は「社会的」である必要があるのかという問いです。人間は、社会的になる必要があるのでしょうか。人間はおそらく誕生した時から、社会的な生物であったと考えられます。そのことに関しては、歴史的には数々の物的証拠が存在しています。確かに人間は、先史時代から共同して狩猟採集を行い、農耕牧畜を行い、部族社会を形成してきました。しかし、果たして人間全員が社会的であることなどあり得るのでしょうか。逆説的に聞こえるかもしれませんが、もしも人間全員が社会的であるとしたら、人間はそもそも社会的な動物ではないということになります。なぜなら、それ自身を含むすべてが真であるような解は論理的には存在しないからです。もしも人間が社会的な生物であるならば、社会的でない人間が存在することも同時に肯定されるはずです。それでは、個人は社会の中で一体どのように表現されるのでしょうか。これについては、具体的に考えてみる必要があります。例えば、日本国民は、生まれた時から借金を背負っていると言われることがあります。しかし実際に借金を背負っているのは、あくまで国家であって国民ではありません。実際には、国民は国家にお金を貸している側、つまり債権者なのです。以上のような誤解が生じることもまた、個人と社会の関係に関する混乱が存在することを示しているのではないかと私は思います。さらに例を挙げるとすれば、なぜ社会には「法」(=ルール)が存在するのでしょうか。まず前提として、もしもすべての人間が「同質」であったならば、ルールや法律など要らないということです。つまり「法」が存在するという事実それ自体がすでに、人間の多様性や非均質性を認めているのです。法が具体的に何の権利を保障しているかということを問うまでもなく、法の存在それ自体が人間の非均質性を肯定しているのです。人間は法を破らないようにだけではなく、法を破ってしまった場合にも非均質性が認められる存在として扱われているのです。さらに、一部の人々は、因果関係に関して誤解をしています。例えば、一部の人々の間では日本の「少子化」は悪であるということになっています。しかし、そもそも少子化の傾向はなぜ起こってきたのかといえばそれは、今の日本においては(特に都会において)経済的な理由やその他様々な理由から、子どもを産みづらい、そして子どもを育てづらい社会が出来ているからです。少子化には理由が当然存在するのです。しかし一部の人々は、少子化という事実をあたかも日本が抱える諸問題を生んでいる「原因」へとすり替えてしまいます。結果は結果であり、それは原因になることはあり得ません。結果と原因を混同すると、必ず間違えます。そしてそのようなことになってしまう理由は、ひとえに自分が見たくない結果から目を逸らしたいとの感情に尽きるのです。以上のような問題点を踏まえて、社会に関する個々のアイデアを結集して徹底的に一人一人の幸せのためになる方向へ突き進まなければならないと私は思っています。個人と非均質性の確保、因果関係に感情をまじえないことが何よりも肝要です。そして、大きな意味での社会を失いつつある私たちに今必要なことは、徹底した実践性だけです。