社会科学研究会

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日本国憲法改正の意義

 日本国憲法施行の年から、今年が六七年目です。日本国憲法は本当に国民の総意なのか。日本国憲法制定当時の状況と比較して、現在の状況は何が変わったのか。反対に、何が変わらなかったのか。今回は、今後の日本国憲法の在り方について考えてみようと思います。まず憲法とは誰のためのものなのか。憲法は勿論、国民のためのものです。近代憲法の考え方を享受している人は、例外なく皆そう答えるでしょう。しかし、実際にどのような憲法が「国民のための憲法」と呼べるのかについては、意見が分かれるところです。私個人が考える「国民のための憲法」の最低条件は、以下のようなものです。①政治的・社会的に民主主義の立場を採用していること、②あらゆる国民に対し基本的人権を保障していること③憲法の趣旨に反する立法や執行が行われた場合に、それらに対して違憲の判断を下す機関を有していること④憲法の趣旨(民主主義や基本的人権の尊重)を達成するために、憲法の改正手続が厳格なものになっていること(為政者や国民の一時の情動のみに動かされることを防ぐため)⑤あらゆる国民に対し、公開裁判を受ける権利を保障していることです。その他にも統治機構の形態についてや裁判所の違憲立法審査権などの様々な争点が存在しますが、憲法が受け持つ基本的な役割は以上のようなものになると思います。それでは具体的に、日本国憲法の内容に焦点を当ててみようと思います。日本国憲法の持つ最も大きな特徴は、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重であると言われます。この三つの原理は独立して存在しているわけではなく、互いに密接な関係を持っています。その密接な関係を示しているのは、日本国憲法が起草された当時の日本の状況です。昭和二十年(1945年)に、日本は連合国側に無条件降伏し、ポツダム宣言を受諾しました。そしてアメリカの占領下において、日本国憲法は制定されました。つまり日本国憲法は、第二次世界大戦における日本の敗戦と切っても切り離せないものです。”日本が戦争に負けるなんて信じられない。”大勢の日本国民がそのように感じ、日本という国を信じられなくなってしまったのではないかと思います。食べる物がないことや戦闘の過酷さに加え、精神的な意味での戦争の残酷さというものを私は容易に想像することが出来ます。もしも自分が当時の出来事を体験したとしたら、今まで自分が信じてきた幻想が崩れ去ってしまう現状とその事実を認めたくないという気持ちが交錯し、ひたすらやり切れない思いに苛まれたことだろうと思います。日本国憲法が施行される前までは、大日本帝国憲法明治憲法)が施行されていました。大日本帝国憲法は、その第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるように、天皇主権を定めています。ご存知のように日本国憲法は、その前文に「日本国民は、~主権が国民に存することを宣言し」とあるように国民主権を定めています。日本国憲法は、明治憲法七三条の改正規定によって成立した憲法であるとされています。しかし、欽定憲法であるはずの明治憲法を民定憲法である日本国憲法へと改正することは法的に許されるのか、ということが問題となります。つまり、明治憲法日本国憲法との継続性の問題です。確かに、”日本国憲法は新たな国民主権主義に基づいて国民自らが制定したものである”と言えないことはないと思います。しかし、現在において通用しているものが常に最適な選択だった、と捉えることに対して私は懐疑的な立場です。そして、実際にはアメリカの占領下において国民主権が機能する余地があったのかという点に関しても、疑問が残ります。私は、日本国憲法制定当時の手続的な不備を以て現行憲法の存在そのものを直ちに否定すべきとは考えません。なぜなら、その選択は最適な選択ではなかったかもしれないが、現に今日本国憲法について論じることが出来る以上、最悪の選択でもなかったのではないかと思うからです。つまり、日本国憲法の制定過程には一定の瑕疵が存在するが、内容的には一定の有効性が存在すると思います。しかし、そもそも制定過程に瑕疵が存在していたということ及び現在日本の置かれている状況が現行憲法制定当時と比較して変化してきたことを認めるならば、私は現行憲法には改正の余地が十分にあると思います。第九条二項には、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定されています。しかし日本には、自衛隊が存在します。自衛隊はその名称がどうであれ、実質的には十分に「戦力」であると言えるのではないでしょうか。つまり憲法上、日本は戦力を持ってはならないことになっているのにかかわらず、自衛隊という名の戦力(=軍)を持っているわけです。自衛隊が軍であるということを認め、有事が起こった際に、迅速に出動することが出来るようにしなければならないのではないかと私は思います。大東亜戦争(太平洋戦争)において日本は、アジア諸国の命運を賭けて戦いました。欧米列強の植民地主義に対抗するためです。日本は敗戦したと言われていますが、アジアの国々は次々と独立を果たしました。反対に、欧州諸国は次々と植民地を失いました。アジアの独立を勝ち取ったのです。第二次世界大戦後、日本は一度も戦争に参加していません。そして、1952年にサンフランシスコ平和条約講和条約)を締結した後は、日本の戦争責任は全て法的に決着しているのです。平和条約締結後に、他国が一方的に戦犯や戦争責任を追及することは許されません。対して戦後、日本国憲法の下で北朝鮮による日本人拉致事件が次々に起こりました。北朝鮮による拉致事件は、現在日本が抱えている問題の中でも特筆して重大な問題であると思います。北朝鮮による拉致事件は軍事的作戦、つまり戦争行為に他ならないのです。なぜ日本という国家は、大切な一人の国民を守ることすら出来ないのか。私は、悔しさと憤りを感じます。拉致問題の解決に向けて、第九条二項の改正は必要なのではないでしょうか。このような有事の際に出動することが出来ず、複雑な気持ちを抱く自衛隊員もいらっしゃるのではないかと思います。”東アジア地域に未だ有事は起こっていない”と言う人たちは、何故そのように言えるのでしょうか。拉致事件を有事と呼ばなければ、一体何を有事と呼ぶのでしょうか。そして日本国憲法改正に際して私が必要だと思うことは、日本国と日本人独自の条項の追加です。初めて日本国憲法の条文を読んだ時に、私は違和感を覚えたことがあります。前文を読んでも、どの条文を読んでも、そこには一目でこれは”日本の憲法”なのだと分かる箇所が存在しないのです。例えば、「小さきものを大切にしなさい。自然を敬いなさい。」や「法律に書かれていないからといって、卑怯なことを行ってはいけません。武士道に悖るようなことを行ってはいけません。」また「自分よりも弱い存在に対して、暴力を振るってはいけません。」、「休日には家の前に日本の国旗を掲げなさい。」などという条文が日本国憲法にあったとしても少しも可笑しくありません。言うまでもなく、日本国憲法は日本人のための憲法です。そうであるにもかかわらず、日本国憲法に日本独自の条項が存在しないという状況は可笑しいのではないでしょうか。また私は、新しい人権条項の追加が必要なのではないかと思います。現行憲法は第三章(国民の権利及び義務)において、いくつかの基本的人権を列挙しています。しかし現行憲法に規定されている人権というものは、1947年当時において必要とされていた、あるいは将来的に必要になるであろうと予想されていた人権なのです。1947年当時の日本の状況との比較において、「子どもの権利」(幼児虐待・児童虐待の増加という状況を踏まえて)や「長時間労働やハラスメントを拒否する権利」、「いじめの禁止」等の条項を追加することが現在の日本には必要なのではないかと思います。従来の基本的人権は全て残したうえで、国民からの要請により新たな人権が憲法上保障されることが必要です。今まで日本国憲法は、一度も改正されてきませんでした。立憲主義とは、憲法の形式を変えないこと(目的)ではありません。そうではなく、立憲主義憲法の趣旨を通じて国民の意思を実現するための手段です。つまり立憲主義は、もしも国民が憲法を変えたいと望むのならば、憲法自体をも国民の意思によって変えることが出来るということを示しています。もしも立憲主義の本質が憲法を変えないことにあるのだとすれば、そもそも憲法改正手続の条項が憲法自体に含まれていることは矛盾になってしまいます。憲法を改正するか・改正しないかといった二者択一の議論ばかりに時間を費やすのは、本当に勿体ないことであると私は思います。日々生活する上で、それぞれの人にアイディアが沢山生まれていると思います。そのアイディアを憲法に反映させることは立憲主義の本質であると思います。私が考える立憲主義の最高形態は、皆が他人から言われなくとも自分から進んで人々のためになることを行う状態です。逆説的に聞こえるかもしれませんが、形式的な意味での憲法が必要なくなった時こそ、真の立憲主義は達成されるのではないでしょうか。国が憲法を守ることに縛られているうちは、未だ成熟していない状態であると言えます。日本は、他国に言われて善を行うのではありません。自ら行うのです。日本国憲法についての議論は、専門家のための議論ではありません。専門家が正しいという保証はどこにもありません。憲法改正権は、国の行く末の最高決定権です。国の行く末は、誰が決めるのでしょうか。それは、国民に他なりません。今こそ、国民のための日本国憲法改正の論議をしていかなければならないと私は強く思っています。