社会科学研究会

一人の人間を救えない社会科学なんていらないー日本のこと、世界のこと、人間のことを真剣に考え発信します。

日本という戦場

 先日、私がいつも利用するJRの駅にて駅の券売機の所で硬貨を落とした人がいました。その時、私は硬貨を拾って持ち主に渡しました。私が電車に乗り込む時に、今度は後ろに並んでいた先ほどの人とは別の人が私の切符を拾って渡してくれました。どうやら、切符は私のズボンのポケットから落っこちたようでした。まさにブッダのおっしゃる「因果」とはこのことだと思いました。物事には必ず原因と結果が存在します。全ての事象は関係しているのだ、と改めて思いました。それと同時に私は、こんなに素晴らしい国で毎年三万人もの人々が自殺に追い込まれているのか、と悔しさと悲しみが混ざり合ったような気持ちを覚えました。日本は、神道の伝統と仏教の伝統が共に根付いて調和した素晴らしい国です。しかし、なぜこれほど多くの人が自殺に追い込まれてしまうのか。今回は、その要因を真剣に考えてみようと思います。第一の要因として考えられることは、近代文明が「死を忘れた文明」であるということです。近代文明は、人間の行動規範や存在意義を合理化してしまいました。近代文明は私たちに対し、生の方向だけを見つめろと言っているように感じられます。しかし生の意味を知るためには、死の意味を知らなければなりません。近代教育は、死生観の教育を疎かにしてきました。第二に、生きることそのものに圧倒的な価値を置く倫理の不在が挙げられます。日本人は、少し位ずるをしたり卑怯な行為を行ってもとにかく自分が得をすれば良い、という考え方を持たない民族です。日本人は何をするにもまず、他人のことを考えます。それは日本人が誇るべき素晴らしい特徴です。しかし一方で、日本人は自分の生命や身体を守るということに関しては注意を払ってこなかった部分があるのではないでしょうか。卑怯な事をする奴は生きるに値しない、といった言説に似た価値観が現在も日本には存在するのではないか。この考え方は非常に危険です。日本人のある意味で素晴らしい特徴は近代文明の死を忘れた文明観と相俟って、逆に日本人を苦しめてきたのかもしれないと私は思いました。第三の要因として、日本人にとっての恥の大きさや面子の重要さが挙げられると思います。私自身もそうなのですが、日本人は恥を感じることに敏感であり、面子を重要視する民族なのではないかと思います。日本人は、恩を受けたら必ず恩を返さなければならないという精神が徹底している民族です。恩を受けたら受けっぱなしというのは、日本人の性に合わないのです。他人から物を貰ったり恩を売られたりすることに対して消極的になったり妙な警戒心を抱いてしまうのは、日本人の精神の特徴だと思います。そして日本人は、恥ずかしがり屋の民族でもあります。日本人が恥ずかしがり屋であることは、面子を重視することの裏返しです。しかし面子をあまりにも重視しすぎることは、日本人を完璧主義に陥らせる危険があります。完璧主義は、生きていく上でしばしば困難をもたらします。人間はそもそも、完璧ではないからです。面子を大切にすることは時に、自分の本音を他人に対して伝えることを妨げたり、また自分の真意ではないことを発言することを促すこともあり得ます。それゆえ日本人は、裏(本音)と表(建て前)を日常的に使い分けている民族だと言うことも出来るでしょう。日本人の内で、本音と建て前を使い分けていない人は存在するのでしょうか。多くの日本人は、それらを使い分ける訓練を日常的に行っているのではないかと思います。裏と表を使い分ける日本人に対し自分の意見や考えを発言することを強要しても、日本人が真に生の方向へ向かうための解決方法にはなりえないと私は思います。なぜなら日本人に対して真意や本音を発言するように求めたところで、面子や和を尊重するあまり、個々人の真意が出てこないことがままあり得るからです。日本人は長い間、「個人(indivisual)」と「社会(society)」という言葉を持たなかった民族です。つまり日本人は、「個人」と「社会」という言葉を必要としてこなかったのです。そのような言葉の区別をすること自体が、日本人にとってはナンセンスだったのではないでしょうか。日本人にとって必要なものは、行動とかけ離れた言葉の上での(論理的な)倫理ではなく、行動規範としての(身体と一体となった)倫理なのではないかと思います。日本と日本人のことを本当に真剣に考えている人は少ない、と私は感じてしまいます。というのも、外国のものをそのまま持って来て日本に無理に当てはめようとする人々や、外国から見た日本像なるもの(日本的なイメージなるもの)を植え付けようとする人々は確かに沢山存在するように見受けられます。しかし肝心の、日本人の日本人による日本人のための倫理を真剣に考えている人はどれほど存在するのでしょうか。私は、そのような倫理を創らなければならないと思っているのです。日本人にとって必要な倫理は、外国から移植することは出来ません。それは、日本人自らが創っていかなければならないのです。日本人のための倫理が一体どのようなものになるのかは、私には未だはっきりとは分かりません。しかし、日本人が日本人のために真剣にアイディアを出し合って議論を尽くし、一歩ずつそれを見つけようとする努力は決して無駄ではないはずです。日本人の持つ素晴らしい特徴を大切にしながら、これから日本人は自分たちが生きていくための倫理を創っていかなければならない時期に差し掛かっていると私は思います。日本人はこれまで以上に、命を大切にすべきです。私は、日本と日本人を守るためには批判されることを決して恐れず、正しいことをはっきり示していく覚悟を今回から持ちました。このことは私自身にとって、これまでにない大きな武器になることと思います。私はこれから、決して諦めずに日本と日本人のために私自身の持てる力を尽くしたいと強く思っています。