社会科学研究会

一人の人間を救えない社会科学なんていらないー日本のこと、世界のこと、人間のことを真剣に考え発信します。

西郷隆盛ーことばでは語りえないもの

 明治十年(1877年)、近代の日本では最大でありかつ日本史上最後の内戦が起こりました。内戦を主導した人の名は、西郷隆盛。その戦いは、西南戦争と呼ばれています。今回は、西郷隆盛という人物に着目し、これからの日本と世界のために何が出来るのかを考えてみようと思います。当時、明治政府の内部では、朝鮮へ使節を派遣するか否かを巡って議論が湧き起っていました。西郷隆盛は、当時日本を侮蔑する掲示を公にしていた朝鮮に対し使節を派遣することによって、反省を迫るべきだとの考えを示していました。西郷は、この意見に懐疑的だった岩倉具視大久保利通木戸孝允らと対立します。その結果、当時の太政大臣であった三条実美の判断によって一旦は派遣が決定され、大久保と岩倉は辞表を提出します。しかし追い詰められた三条は病気に倒れ、その後は主に岩倉によって朝鮮への使節派遣を延期するための工作が図られることになってしまいます。岩倉は天皇に対し使節派遣を批判する意見を述べ、結果的に使節派遣は延期となりました。この一連の事件は、明治六年の政変と呼ばれています。私は、この時から、現在に至るまでの日本の外交姿勢は決定づけられたのではないかと思います。そもそも西郷は、朝鮮との平和的な交渉の為に使節を派遣することを提唱したのですが、岩倉や大久保には西郷の真意は伝わっていなかったのでしょう。岩倉や大久保は、朝鮮への使節派遣が戦争につながるのではないかと最後まで恐れていたのです。日本を守るために必要な攻めの外交は、この時代から封じられることになったのではないでしょうか。外交は、不用意に戦争を起こさないために必要なことです。攻めの外交を恐れていては、突然襲ってくる安全保障上の危機や戦争の危機から自国を守ることは出来ません。西郷は辞表を提出し、鹿児島へ帰郷することになりました。西郷は、政府の中核を担っていた大久保と決別し、また西郷と共に下野した板垣退助の誘いにも乗りませんでした。西郷は、明治政府にも民権運動にも背を向け、自らの道を歩んでいったのです。明治七年に江藤新平を中心とする反政府勢力による反乱(佐賀の乱)が起こった時、江藤は戦争のさなかに西郷のもとを訪れ助けを求めました。しかし江藤が何度頼み込んでも、西郷は首を縦に振らなかったと伝えられています。西郷は、後日に処刑された江藤の件に関して自分に詰め寄るものに対し「三千の兵を見殺しにして逃げてくるような男にそんな(情けをかけてやる)必要はない」と言い放った、と言われています。後年になって福沢諭吉は、西郷の抵抗精神を評価しながらも西郷が武器を取ったことに対し不満を表しました。福沢は「西郷の罪は不学に在り」とまで言っています。しかし本当に大切な事柄は、言葉で語ることは出来ません。殴り合いの喧嘩には論理は存在しません。殴り合いの喧嘩をする時の手の痛みや無性に悲しくなる気持ちを忘れたら、人間は大切なものを失ってしまいます。正義は決して、論理によって導かれることはありません。人間は賢くなればなるほど、生きる歓びや生の実感を見失いやすくなります。大久保や板垣、そして福沢は明治政府をより良い政府にしようと尽力していたに違いありません。しかし彼らは武器を取ることを最終的には否定し、ペンを持った知識人として近代日本の制度・体系を創る方向へと向かっていったのです。これはある意味で、日本と日本人に対する壮大な裏切りです。第二次世界大戦の時も、日本人を裏切ったのは日本を守るために必死で戦った人々ではなく、外圧論などの事なかれ主義によって日本を戦争に巻き込んだ人々でした。西郷は決して不学ではありませんでした。西郷は、不学ゆえに武器を取ったのではありません。西郷が行ったことは武士の抵抗であり、最後の抵抗でした。真価が問われる時に、武士は身体で示すしかありません。西郷の思いは、決して明治政府に届くことはありませんでした。しかし目を閉じると瞼の裏には、西郷さんの残した武士の心が今も綺羅星のように輝いている光景が見えます。西郷さんが最後まで決して武器を捨てなかったように、私は戦い続けなければならないと思っています。