社会科学研究会

一人の人間を救えない社会科学なんていらないー日本のこと、世界のこと、人間のことを真剣に考え発信します。

現状論と規範論

 今回は、規範とは何かについて考えてみようと思います。人間にとって規範というものは、必要不可欠なものではないでしょうか。なぜなら、人間は先のことを考えてしまう生物であるからです。人が安定した気持ちで生活することが出来るということは、何らかの規範が人を背後で支えてくれているということだと思います。人間は、独りだけで生きていくことは出来ません。もしも自分にとって基盤となる規範が無かったならば、人間は事あるごとに不安や絶望の気持ちに振り回されてしまうでしょう。それでは「~である、~だった」という現状を語る時は、そこには「~べきだ、~しよう」という規範の要素は含まれていないのでしょうか。私は、そこにも規範が含まれていると思います。例えば「18世紀にフランス革命が起こり、封建制と王制は崩壊しブルジョワが支配する社会が創られた。」と語る時、そこでは純粋に現状だけが語られているわけではなく一種の規範も語られていると私は思います。規範が含まれない現状論は存在しえないのではないか、と私は思います。それゆえ、いわゆる「結果論」(事なかれ主義)は現状論とはいえないのではないでしょうか。現状論とは、これからの判断を正確に行えるようにするために現状を分析することです。しかし、結果論は「今ある状態は、仕方ないのではないか(仕方なかったのだ)」と言って済ませてしまいます。そのような考え方は最も危険である、と私は思います。安全な立場から結果論をどれほど語っても、「これからどうすべきか」という議論には一向に到達できません。人間は常に現在進行形で、判断を下し行動をしています。それゆえ、人間の行動を静止したものであるかのように見る結果論は、人間の行動規範を説明することは出来ません。サッカーの解説者が試合の終わった後に、ハイライトを振り返りながら語る言説はあたかも、人間の理性と行動が完璧に一致しているかのような印象を与えます。しかし、あるイメージを頭で考えうることとそれを実際に行動に移すこととの間に存在する隔たりは、人間の想像をはるかに超えるほど大きいものです。規範を別の言葉で言うとすれば、それは方向性とでも言えるでしょうか。方向性を持たない歴史や事実は存在しません。歴史や事実は人間がつくったものであるゆえ、そこには常に方向性が存在します。誰にとっても公平中立な歴史などというものは存在しません。人は、自分自身の方向性を最大限に活かせるような道に進むしかないのではないでしょうか。自分自身の欠点だと思い込んでいた所が、実は最大の長所でもあるのです。人間は、自分自身に対する評価を貶めてしまいがちです。しかし、その評価の基準は一体誰が決めたのでしょうか。その基準を決めたのは、ほかならぬ自分自身なのです。人間は、他人の心の内を知ることは出来ません。しかし人間は想像力があるゆえに、知りえないもののことを想像してしまいます。そして、他人から見たらこのように見えるであろう自分というものを勝手に創り上げてしまうのです。しかし当然ですが、そのような自分自身の像というものは、他人が自分に対し抱くイメージとはかけ離れているものです。自分が他人によってどのように見られているかということを判断基準にするのではなく、自分が他人のことをどのように見ているかということを見つめ直すことが必要だと私は思います。人間は他人の心を知りえないのと同様に、実は自分の心も知りえないのではないでしょうか。他人から愛されていない(と思い込んでいる)自分は、何よりもまず他人を愛していない(愛することが出来ない)のではないでしょうか。自分にとって、自分自身の事ほど理解できないものは存在しない。これが、人間がこれからの世界を生きていく上で必要となる新たなテーゼなのではないでしょうか。絶望は絶望ではありません。人間に心の傷を負わせたのは誰でしょうか。その傷は人間が負わせたものなのだから、人間の力によって癒すことが出来るのです。人間が負わせた傷を癒すことが出来るのもまた、人間に他ならないのです。