社会科学研究会

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聖徳太子の政治

 今の日本を作ったのは誰なのか。今の日本人の心の淵源は、どこにあるのか。そう考えるとき、私の心には必ず一人の人物の存在が思い浮かびます。それは、聖徳太子という人物です。聖徳太子は、推古天皇の摂政として様々な抜本的な政治改革を行いました。彼が行った最も重要な政策は、冠位十二階と十七条憲法の制定です。冠位十二階が制定される以前は、各地の有力な豪族たちが世襲によって権力を受け継いできました。(氏姓制度聖徳太子はそのような制度を改め、生まれた時の身分にかかわらず各々の個人に対して冠位を授ける制度をつくりました。つまり、従来は生まれによって身分が決まっていたのですが、冠位十二階の制定により生まれの如何によらずに各々にふさわしい身分が与えられるようになったのです。冠位十二階制を制定した大きな目的は、簡単に言えば官僚制と中央集権国家の確立であると思われます。当時、海を挟んで日本の隣側には隋という巨大な国が存在していました。大和政権が、隋に対し並々ならぬ警戒感を持っていたことは間違いありません。それと同時に、大和政権は隋から様々な学問や政治制度を吸収しようとしました。そのため、大和政権は紀元600年から618年にわたって5回以上隋に国使を派遣しました。隋という国の官僚制と中央集権的政治体制を学んだ当時の政治家たちは、隋に侵略されないようにするためには自分達も政治体制を大きく改革しなければならないと考えたことでしょう。国内の豪族たちが覇権を争い合いまとまりを失うのではなく、日本の外に対して日本人がどのようにまとまるかといったことが課題になっていったのです。これは、ある意味では日本の真の外交と国際関係の始まりであると私は思います。それ以前は、日本を含め多くのアジアの国々が中国の歴代王朝から冊封を受け、それを受けた国の君主が中国の皇帝と君臣関係を結ぶといった冊封体制が行われていました。邪馬台国卑弥呼は当時の魏という国に対して使者を送り、親魏倭王の号を受けたことが知られています。日本はその冊封体制を断り、真に自分の足で歩き始めたのだと思います。聖徳太子が制定したと言われている十七条憲法は、「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」という条文から始まります。これはいわば当時の官僚が守るべき教えであり、官僚制の成立に大きな役割を果たしたと考えられます。しかしこの憲法は同時に、今の日本人に通じるものをとてもよく言い表していると私は思います。第十条にはこう書かれています。「忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。」日本人ならば誰でも持っているに違いない寛容の心がここに規定されています。そして、第十七条にはこう書かれています。「夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。」重要な事柄は決して独りで決めてはならず、必ず他の人と話し合って決めなければならないということが7世紀初めの法に規定されています。官僚制と中央集権国家の建設という目的が、日本という国に来て日本人の寛容と思いやりの心に触れたのだと私は思います。聖徳太子は仏教の教えを学んでいたわけですが、十七条憲法は原始仏教とも中国大陸の思想とも少し異なる日本独自の考えを表しています。十七条憲法は、私にとって本当の憲法であり心のふるさとに他ならないのです。聖徳太子は、日本と日本人をつくった先生として今も日本人の心の中に生き続けています。

 

法華義疏(抄)・十七条憲法 (中公クラシックス)

法華義疏(抄)・十七条憲法 (中公クラシックス)